鮮やかな赤色が印象的な、高崎市民になじみ深いだるま。
本市では豊岡地域を中心に「高崎だるま」の伝統が受け継がれています。日本の吉祥である鶴と亀が顔に描かれていることから「縁起だるま」「福だるま」とも呼ばれている高崎だるま。
平成5年には、群馬県ふるさと伝統工芸品に指定されています。
また平成18年には、特許庁が創設した地域団体商標制度で県内初となる商標登録を受けています。
問い合わせは、観光課(電話:027-321-1257)へ。
高崎のだるまは、旧豊岡村が1955年に高崎市と合併するまでのおよそ140年の間、豊岡だるまと呼ばれていました。現在は「高崎だるま」として商標登録を行い、全国にその名が知られています。
高崎だるまの歴史
高崎のだるま作りは、今から二百十数年前、豊岡村の山縣友五郎が始めたとされています。
稲の収穫や麦蒔きが終わった、秋から翌年の春にかけて作られていましたが、友五郎が始めたころは、色塗りに使う材料が簡単に手に入らないなどの理由で、生産量は少なかったようです。
1859年の横浜港の開港で、だるまの生産が盛んになっていきます。海外からスカーレットという赤の顔料が輸入されるようになったからです。
徐々にだるまの作り手が増えていき、1909年ころには18軒になりました。現在では72人の職人が伝統を継承しています。
病気除けとしてのだるま
だるまの広まりは、江戸で疱瘡(天然痘)という病気が流行したことに由来します。当時の庶民は病を恐れ、しばしば願掛けを行っていました。赤いものが邪気を払うと信じられていたため、赤く塗られただるまが疱瘡除けとして求められるようになりました。流行時には、子どもの枕元などに置かれていたと言われています。
その後、疱瘡の予防法が発見されたことで、江戸のだるまは姿を消していきました。
貴重な資料の発見
近年、「高崎談図抄」という文政十二(1829)年の文献に、だるまに関わる記載があることが分かりました。
田町の市で、だるまを売る様子が版画と文章で残されていたのです。まちなかで、だるま市のルーツともいえる動きが始まっていたことが分かる貴重な資料です。
当時の田町では、毎月5日と10日をゴトオビと言い、月6回の市・六斎市が開かれていました。「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と謡われたほどにぎわっていました。六斎市の中でも、正月の10日を初市と呼び、市の神様を祭り、まちを挙げて祭りに沸いたようです。
高崎談図抄には、この初市の風景が描かれ、市の神様の前にだるまを売る店が出て、人々が買い求めている様子が見て取れます。今でも続いていれば、県内で最も歴史あるだるま市になっていたのかもしれません。
まちなかでだるま市を開催
市と市観光協会、群馬県達磨製造協同組合は、来年1月1日(祝)午前11時~午後6時、2日(月)午前9時~午後6時に高崎駅西口駅前通りでだるま市を開催します。組合にとっては設立101年目の新たな挑戦となります。
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